「研究授業」×「学校」
「研究授業は、必要ない」
「時間ばかりとられて、得るものがなかった」
そんな声を聞くこともあります。
私は「研究授業」があった方がいいと考えています。
本日、ある小学校の研究授業に参加させていただきました。
本来であれば、今日が学校研究の発表の日でしたが、新型コロナの影響で発表をすることができなくなってしまったそうです。
それでも、校内で学校研究を進めようということで、この学校の先生方は、本当に素晴らしい授業をされていたと思います。
実は、参加させていただいくのは今回が5回目です。
(昨年度からお邪魔させていただいております。)
1回目は、3年生の詩の授業。
雰囲気の良さ、詩を楽しんでいる姿が、初対面の私でも分かりました。
2回目は、6年生の「鳥獣戯画を読む」(説明文)の授業。
こどもたちの良さを引き出す、こどもたちに寄り添う授業で、主役が「こども」という授業でした。(で、それをさらっとやっている先生のカッコよさ!)
3回目は、2年生の「スーホの白い馬」(物語)の授業。
この先生と、この子たちだからできる授業だな、と感じました。引き込まれるってこういうことだなって感じました。
4回目は、2年生の「どうぶつ園のじゅうい」(説明文)の授業。
1回目と同じ先生の授業でした。この先生は、雰囲気づくりが抜群です。そして国語そのものに詳しい方だなって思いました。なので、こどもがどんどん吸収していくことが分かる授業でした。
そして、5回目は、5年生の「やなせたかし」(伝記)の授業。
主体的・対話的ってこういうことなんだろうなって感じた授業でした。こどもたちが、他者と関わる価値?意味?を知っているような授業で、先生の個に対する言葉かけも絶妙でした。
どれも素晴らしい授業でしたが、共通して素敵だったのは、「こども」がスタートで、「こども」がゴールの授業だったということです。
学校の研究仮説も素敵で
「(こどもが)自らの変容に気付くこと」
というキーワードが入っています。
教師が変容させる
という授業ではないことが、ここからも伝わってきます。
この図のように、どんな方法で授業をするのかは、最後に考えることなのだと思います。方法というのは千差万別ですし、こどもの実態によっても異なります。また時代によっても変化するものだと思うので、「流行」といえる部分なのだと思います。
一方で、「こどもをみる」とか「こどもの幸せを願う」といったことは、どんな子でもどんな時代でも変わらないものです。つまり「不易」といえます。
私が「研究授業」があった方がいいと考えるのは、このあたりのことが理由になっています。
研究授業となると、ついつい流行の方に目がいきがちです。結果、それをやった人は、今回だけがんばった、となります。それを見た人も、うちではできない、となります。なので、研究授業のための研究授業はいらない、ということになるのだと思います。
そうではなくて
「研究授業」で大切なのは、こどものことを考えて授業プランを立てる、というプロセスを経験することなのだと思います。
このプロセスを知ることで、どの子にも、どの授業にも、その視点をもって関わることができるようになると考えます。
すると、「もっとこどもと話さないとダメだなー」とか「この子には、この方法がハマるかなー」とか「もっとこどもたちに任せた方がいいかなー」とか、いろいろなものが見えるようになってくるのです。
(これは自分の経験からです)
そう考えると、指導案は書けなくてもいいような気がします。というか、指導案を書くことが目的になっているような状況は間違いということですね。まず、こどものことを考えて、次に方法を考えるということができる人は、結果として指導案も書けるってことですね。
(表現の粗さとか二の次です!)
もちろん、どんな方法がいいのかな、と議論することには価値があります。それによってスキルが磨かれるのは間違いありません。ただ、心もなくスキルを使ってもムダです。ゲットしたスキルを、いつどこで使うのかは、こどものことを考えれば見えてきますね。
私にもこどもがいます。
今回お邪魔させていただいた学校は、自分のこどもを通わせてあげたいな、と思わせてくれる学校でした。(もちろん現在通っている学校も同じくらい素敵です。こどもの担任の先生の素敵エピソードを書くと、これも相当な長文になります!)
学校の話題って、暗いものが多い気がします・・・。
実際は、そんなことないです!
素敵な学校、素敵な先生ばかりです!
「研究授業」を通して、その素敵さを再確認できました。
もし呼んでいただける学校(学校でなくても大丈夫です)がございましたら、遠慮なく御連絡ください。一緒に学ばせていただきたいと思います!