人の夢は終わらない

全ての「こども」と全ての「せんせい」が生きたいように生きることができるように、まず私が学び続けます。

自分で学びをつくること①

自分で学びをつくること。

きっと大人になっても大切なことだと思います。

 

学びをつくることができるようになるためには、その子を尊重し、その子の自由な学びを尊重することが大切であると考えています。

(もちろん、他者の自由を奪わない限り)

 

尊重するポイントとしては、「何を学ぶのか」「どんな方法で学ぶのか」「どのくらい学ぶのか」「誰と学ぶのか」という四つの自己決定に基づいたポイントを大切にしています。(ダニエル・ピンク著)

 

今回は、「どんな方法で学ぶのか」「誰と学ぶのか」にあたる部分の紹介です。

 

畳が落ち着くといって、物語の世界に浸る子。

 

遠くの子と話し合いたいからといって、ビデオ会議を開く子。

 

外の方がイメージが広がるといって、外で文章を書く子。

 

会社を立ち上げるといって、大型モニターを使用してミーティングを始める子。

 

どの子も自分に合った学びをつくり始めています。

写真は別の日にとったものですが、これらの活動は同じ授業の中で行われています。

 

そんな授業で大丈夫なの?

という声もあるかと思いますが、教材研究と児童理解に努めれば大丈夫です!

尊敬する先生が「最初から最後まで教材研究と児童理解」と仰っていた意味が少し分かるようになった気がします。

 

私は、子どもたちと授業をすることがとても楽しいです。

今までも楽しかったのですが、毎日その気持ちが強くなっている感じです。

 

これからも「子どもたちの学び」と「私の学び」をつなげて発信していきたいと思います。

「複雑っていいことだ」 内田樹先生より

友人から本を借りました。

その友人からおススメされたもので外れはありません。

いつも、自分の世界を広げてくれる大切な友人です。

 

今回借りた本は「複雑化の教育論」(内田樹著:東洋館出版)です。

口語で書かれていることから、ラジオを聴くように頭に入ってくるので、タイトルのイメージと異なりとても読みやすい本でした。

 

ここで「タイトルのイメージ」と書きましたが、私は「複雑って読みにくそう。大変かな。分かりにくいかな。」というイメージをもっていたということです。

 

そして、読み終わった今、「複雑って大変かもしれないけれど、すごく大切で、むしろ分かりやすいことなんだ。」というイメージに変わりました。

「シンプルはよいこと。」というイメージが180度変わり、「複雑であることを目指したい。」と思うほどです。

 

この本の内容から私が感じたことは

具体と抽象の大切さ

中庸であることの素晴らしさ

特にこの二つです。

でも、この言葉や文は本の中には出てきません(笑)

でもこの本から学んだことだと思っています。

 

最後に、本文の言葉を借りて明日から心がけたいことを書くならば

「機嫌のよい人でありたい。」ということです。

「複雑化の教育論」おススメです!

ぜひ手に取ってみてください。

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「人生は自分の心しだい」高校生のプレゼンより

オンラインで高校生のプレゼンを聴く機会をいただきました。

テーマは「人生はクソゲー神ゲーか」

もうこれだけで惹きつけられますが、内容もとてもおもしろかったです。

 

クソゲーにはどんな要素があるのか。

神ゲーはどうか。

それを整理したところで、人生に照らし合わせるとどうか。

 

関係なさそうな具体を、うまく抽象化することで結び付けていて、意外な切り口なのに納得できるというものでした。

自分自身の中で、新たな気付きや問いが生まれたという点でもおもしろかったです!

 

プレゼンした高校生は、人生はクソゲーだという結論を出しました。

でも、神ゲーになるかどうかは、プレイヤー次第だ。という言葉も添えていました。

 

心から共感できました。

私は、人は変われると信じています。

プレイヤーの心次第で変われるというプレゼンを高校生から聴くことができて、とても幸せな気持ちになりました。

そして、変わることを止めない大人でありたいと思いました。

 

皆さんの人生はどうですか?

クソゲーですか?

神ゲーですか?

やるからには、おもしろい神ゲーにしたいものです。

「ととのう」からの「SISU」 カトヤ・パンツァルさんより

サウナブームに興味をもったのが先日のこと

「ととのう」という言葉は、流行語大賞にノミネートされたほどですね

 

もともとサウナは好きですが

積極的に通うほどではなく

あれば入るといった程度

ただ、これだけ取り上げられるのですから

サウナの何かを求める人が多いということは間違いありません

 

そこで自分が立てた問いは

「ととのう」とは何だろう

なぜ「ととのう」ことを求める人が多いのだろう

という二つです

 

「ととのう」とは

頭は冴えているけれど、体はリラックスしている状態

だと自分は理解しました。

(間違っていたらごめんなさい)

 

なるほど、日常生活でそんな状態になることは少ないのかもしれません

それを意図的に生み出せるのだとしたら、求める人が多いのも納得です

 

その背景には、みんな疲れているということがあるのでしょうか

意図的に「ととのう」状態を生み出すことで、バランスをとらないといけないほどに

 

問いの納得解を模索するうちに

意図的によい状態を生み出す工夫が必要であること

自分は疲れているのかもしれないということ

この2点を自覚することができました

 

ただ、サウナといってもお金がかかりますし、場所の問題もあります

この具体的な策は、自分にとって続けられるものではないな

ということも自覚できました

 

では、どうしましょうとあれこれ考えているうちに

フィンランドの人がどのように生活をしているのか、という問いが立ちました

 

そこで読んだ本が「フィンランドの幸せメソッドSISU」です。

(カトヤ・パンツァル著、柳澤はるか訳)

 

人として、当たり前の生き方をすることが一番大切であること

それは今の自分にとっては当たり前でなかったこと

だから意図的に取り組まなければならないこと

そのための力?マインドセット?それが「SISU」であること

 

そんなことを感じ、理解しました

今ならば、サウナにいかなくても、自身の生活をよりよいものにしていくことができそうです

 

とても素敵な本です!

ぜひ読んでみてください!

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「理解すること、共感すること」素敵な先生より

相手のことを理解すること

相手に共感すること

似ているようで、大きく違うような気もします

 

理解と共感の語義は置いておくとして

私がどのように捉えているかという意味を書きますと

 

相手を本当に理解することはできないと考えているので

理解は、できないけれど、しようとすることに価値があるもの

と捉えています

そして、理解しようとするから、少しずつ共感できるようになるのではないかと

 

本日、素敵な先生方とお話しする機会がありました

 

これまでの文学の学びは、理解先行になっていたのではないか

理解のない共感は、勘違いを生むのではないか

でも、どちらかといえば共感することに重きを置いて学ぶことが文学なのでは

 

そのとおりだなあと思って聞いていました

テストのために学んでいるわけではありません

唯一解を求めるためではないのです

相手に共感する、他者を受け入れる

そんなことを学ぶことが、文学というか、みんなで学ぶ価値なのかなと思いました

 

当たり前のことですよね

という話にもなりました

それが当たり前であることを自覚できたのは大きいし

大切だと思っていたこと、最近学んだこと、そのへんがつながったことも大きかったです

 

貴重な機会をいただきました

やっぱり誰かとつながるって大切です

そして感謝です

 

皆さんは、理解することと共感することを、どのように考えていますか?

我が子より「自由に生きるためには」

自由に生きるために、何が必要だと思いますか?

学ぶこと

お金

健康

他者とのつながり

 

考えるといろいろなことが浮かんできますね

その人が大切にしていることかもしれませんし

重要な経験をしたのかもしれません

 

そんなことを考えて

私はこう思う、ということを学校で伝える日々です

 

では、自分のこどもは何と答えるのか

気になって冒頭の質問をしてみました

 

「自由に生きるために、何が必要だと思う?」

「ルールかなあ」

「むしろ自由と反対のイメージじゃない?」

「でもルールがないところで自由にするでしょ」

「うん」

「そうすると、その人の自由のせいで誰かが困ると思うんだ」

「うん」

「みんなが同じくらい自由に生きるためにはルールは必要だと思う」

「でもルールばっかりで不自由を感じないかな?」

「それは人に言われたルールだとそうかも」

「なるほど」

「納得していれば大丈夫だよ」

「そのとおりだね」

 

我が子より学ばせてもらいました

自分の自由とみんなの自由の両方を考えること

自分が納得していること

 

大切なことを再確認できた日となりました

 

みなさんは、自由に生きるために、何が必要だと思いますか?

いつかお会いできたら教えてください!

「とらわれない」×「学び」

先日、某市のGIGAスクール担当の方が、本校の授業を参観してくださいました。
(もちろん、感染対策をしております。)
また、某企業の方もTeamsで接続し、同じ授業を視聴していただきました。

 

授業を行ったのは私ではなく、2年生の担任の先生で、こどもたち一人一人を大切にされる素敵な先生です。

 

なぜ、この先生の授業を参観・視聴していただいたのかというと、1人1台のPCを自然に活用されていると感じたからです。(この表現が適切かは分かりませんが・・・。)

「こんな使い方をしてほしい。」

「この場面であれを使おう。」

と、こちらが考えることも大切です。もちろん、この先生も考えています。ただ、その上で、「自分に合った使い方をしてね。」と伝えているところが、この先生の素敵なところです。

 

ですから、こどもたちはペンで入力すること、キーボードで入力することなどを選んでいますし、動画を確認したりチャットを使用したりすることも選んでいます。この日は係活動の振り返りをしていたのですが、誰とどんな方法で振り返るのかは、こどもたちが自己決定をしているという授業でした。

 

このことは、参観・視聴いただいた皆さんにも好評でした!

「こう使ってほしいな。」という気持ちは、ときに「こう使わねばならぬ。」というものになってしまいます。場面や使い方に「とらわれて」しまうと、こどもたちの可能性を制限してしまうことになりますね。

この先生のように「とらわれない」ことが大切であると改めて感じました。

 

また、この授業ではトラブルも起きました。Wi-Fi環境が不安定になり、チャットを使用しての振り返りの共有ができなくなったのです。

 

これは「教師あるある」ですが、参観されている授業ほどトラブル起きがち。で、それによって授業プラン崩れがち。というものがあると思っています。(私だけ?)

 

ただ、ここで「とらわれなかった」のは、こどもたちでした。

「ネット調子悪いね。」

「紙に書こう。」

こどもたちの柔軟さには本当に驚かされますね!

ここでPCの使用にとらわれなかったからこそ、係活動の振り返りをできたのだと思います。また、この先生が日頃からこどもに委ねていること、その判断を尊重していることが、こうしたトラブルの際にも生きてくるのだと思いました。

そもそも、こどもだちはトラブルだと思っていなかったかもしれません(笑)

 

とても素敵なこどもと先生でした!

今年度もあと少しですが、来週の授業に生かしていきたいと思います!