人の夢は終わらない

全ての「こども」と全ての「せんせい」が生きたいように生きることができるように、まず私が学び続けます。

「好き」×「授業」

先日、あるせんせいの授業を参観する機会がありました。

それは1年生の授業でした。

 

2日連続で参観する機会をいただいたので

2時間みることができました。

 

1日目は学活。

6年生からもらった手紙に返事を書くという活動でした。

2日目は国語。

生活で育てている花が、大きくなったことを

家族へ伝えるために書くという活動でした。

 
どちらも何かを書く活動であったため
どのように書いているのか
というこども様子を見ることにしました。
 
まずは1日目の学活です。
驚いたのは、学校再開して間もない1年生が
一生懸命取り組んでいたことです。
 
許可をいただいていたので、何人かに質問してみました。
 
「どうして急に書き始めたの?」
「手紙をくれた6年生と(zoomで)話して、楽しかったから。」
 
「きれいな色だね。」
「この手紙にね、お姉さんの好きな色が書いてあったから、それをぬってるの。」
 
お手紙によって、自分の相手が明確になったこと
つまり相手意識の高まりが、進んで書くことにつながっている
と私は考えました。
 
2日目の国語では、伝える相手が家族や友達などになり
前回よりは抽象的になっていると思いました。
相手意識の高まりは大丈夫でしょうか?
 
完全な取り越し苦労でした笑
前回同様ものすごいペースで書いていました!
では、書くモチベーションはどこから?
どうやら相手意識だけではないようです。
 
それを考える前に、印象に残ったやりとりを紹介します。
 
それは、せんせいとある子のやりとりです。
「どうやったら、お花が大きくなったことを伝えられるかな」
 
国語の授業であるため
「自分の手と同じくらいの大きさの葉になった。」などのような
書くために必要な力をつけたいねらいがあると推察しました。
実際、多くの子がそうした表現を工夫して書こうとしていました。
 
すると、ある子が言いました。
「家にもって帰って見せる。」
 
そりゃそうだ!!
おそらく今の時期の1年生に教科は関係ないのでしょう。
せんせいが国語の意図をもってアプローチしても
1年生的には「何かを書いている」にすぎないので
学活も国語も同じなのかもしれません。
 
というか、この子は書いてもいません笑
ただ一生懸命であることは、話し方や表情から分かります。
この子は、書きこそしませんでしたが
自ら学ぼうとしていると感じました。
 
そう思って見てみると、こちらの意図から外れていても
(そもそも外れているという表現が教師のエゴですね・・・)
自ら学んでいる子は、たくさんいます。
 
そうした子たちの良さを伸ばすように
今回書いていなかった子を尊重し
児童の学びを止めなかったせんせいも良かったと思います。
 
ただ、今後ずっと尊重できるかというと
今の学校では難しい気もします。
(個人的には、ずっと尊重すべきだと思います)
(また、そういう新しい学校を立ち上げようと考えています)
 
難しいとなると
目標の設定や課題の選択が大切になってくるはずです。
こどもたちが納得して設定したり選択したりすることができれば
尊重しているときに近い授業になると思います。
 
こどもの思いとせんせいの願いが交わるような授業
そんな授業の良さを再確認させていただきました。
 
 
ところで、書くこと
(書くことに限定せず、進んで取り組んでいることに訂正)
のモチベーションはどこから?
 
おそらく相手意識ではなく
「自分」の中の
「好き」とか「楽しい」という
プラスの気持ちからきていると思います。
 
大好きな6年生だから手紙を書けるし
愛着をもって育ててきた花だから伝えようと思うのです。
 
1年生は、自分が中心です。
「自分にとって」を考えられる授業
さらに「プラスの気持ち(好き、楽しい)」で臨める授業
となるように、こどもとせんせいで学びをつくっていきたいですね。
 
 
「好き」ならがんばれる。
当たり前のことかもしれませんね。
 
これから「好き」を増やしていきたいと思います!