人の夢は終わらない

全ての「こども」と全ての「せんせい」が生きたいように生きることができるように、まず私が学び続けます。

「正しい」×「美しい」×「言葉」

年賀状をいただいて、毎年思うことは

「たった一文で何でそんなに心に響かせられるの?」

ということです。

分かりにくい表現で申し訳ありませんが

でもそういう一文ってありますよね!?

 

友人から届いた

「どうせ元気だろ。心配してない。」

恩師から届いた

「あなたの活躍は、知っています。」

先輩から届いた

「挑戦しっぱなしだった。」

こどもから届いた

「また先生のクラスになりたいです。」

 

どんな文が心に響くかは、人それぞれです。

私の場合、共通していることは、書いてくれた人の思いが想像できる文・思いが伝わってくる文に心惹かれます。「きっとこんな思いで書いてくれたんだろうな」と想像することは、こちらの気持ち次第ですが、自然と想像したくなる文があることも事実だと思います。

 

読み手の立場で考えると、私は、この「思いを想像したくなる文」こそ「美しい文」であり、「美しい言葉」に支えられていると勝手に考えています。

書き手の立場でいうなら「思いを込めた文」という感じになると思います。

 

「美しい」というのは「正しい」とは違うと思っています。

正しく言葉を使うことは大切ですし、学校では正しく使えるような授業が展開されてきたと思います。

ただ、正しく使うだけなら思いがなくてもできますし、それこそAIの方が膨大な情報の中から最も正しい言葉を選択できると思います。

 

なんとなくですが、「正しい言葉」「正しい文」に「思い」が加わることで、「美しい言葉」「美しい文」になっていくような気がします。

なので、「正しい」も「美しい」もどっちも大切ということになります。

 

目的よりも、文を正しく書くための型を大切にして授業をする人を批判する人がいます。

「なぜ書くのか」という目的を重視し、型を意識しないで授業をする人を批判する人がいます。

タマゴが先かニワトリが先か、じゃないですけども、どっちという答えがでないものですよね。型を知った上で、目的に合わせて書くこともできるし、目的があるから型を知ろうとすることだって考えられます。

たぶん、「正しい」ということと「自分の思い」というものを行ったり来たりしながら、「美しい」というものになっていくのでしょう。

 

そして、こどもたちが「美しい言葉」を使える人になっていってほしいなと思います。これは文を書くことだけでなく、話すときもそうです。

というかもっと他のことにも当てはまるかもしれません。

「正しい動き」「美しい動き」

「正しい演奏」「美しい演奏」

「正しい判断」「美しい判断」

「正しい笑顔」「美しい笑顔」

「正しい経営」「美しい経営」

型、決まり、ルール、「正しい」の判断基準はさまざまですが、そこに「思い」をのせられる人になってほしいと思っています。

そのために、授業の中で「思い」をもてるようなアプローチをたくさんしていきたいですね。

 

ここまで書いてきて最大の失敗は、私の文が「美しくない」ということです・・・。「思い」はあります!が、「正しい」ということが難しい・・・。もう一度年賀状を読んで、勉強したいと思います。